私というレンズを通して

アメリカ研究専攻の大学院生です。メキシコ系アメリカ人に関して研究をしています。また、学外でセクシュアル・マイノリティ関係の市民講座を仲間とひらいたりもしています。このブログでは、日常生活で思ったことを私の視点から書いていきたいと思います。

ヒゲの持つ力

私にはヒゲがないですが、アメリカにいる仲の良いお兄ちゃんのヒゲ話から思ったことを書きます。

 

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彼は銀行で働き始めて6ヶ月くらいになるのだが、働き始めはヒゲなしで働いていたそう。ヒゲがない方が清潔そうに見えるし、すっきりしているから好きだったという。

 

しかし、仕事をする上では不都合が多いらしい。

 

ヒゲがないと若く見えるからか、窓口で対応している時のお客さん態度がきついことが多く、良い思い出がないという。

 

逆にヒゲがあると、年をとっているように見えるからか、お客さんから信頼されているように感じるらしい。。

 

「それに気がついて、周囲の同僚を見渡すとみんなヒゲを生やしてたんだよ!」とすごい発見をしたように話してくれたが、それを聞いた私は「そうなのかぁ」思った。

(本当はヒゲなしでも人から信頼され、銀行で働く人に対する客の態度は優しくないといけないのだと思うけれど、)彼にとってはヒゲを生やすことが一つの戦略になっているのだ。

 

この話を聞いて、二つのことを思った。一つは日本はどうなのかということ。もう一つは彼の職場の女性はどうしているのかということ。

 

 

日本ではヒゲの人をあまり見ないし、私が女子大で勉強しているせいか、あまり男性が日常の中でどのようにヒゲをマネージしているのかわからないところが多いので、1個目の疑問は保留することにする。

 

2個目の疑問は、私にとっても重要な意味を持つ疑問だと思うので、それを中心に考えてみたい。

先日、「女性の名前で仕事のメールを送ってみたら…見えない差別に気づいたある男性の話」という記事を読んだ(以下のもの)。

www.huffingtonpost.jp

 

これはメールで女性がクライアントからひどい対応を受けていたので、試しに男性名に変えたらクライアントがころっと態度を変え、すごく「良い」人になったというお話が前半に書かれている。

 

これはメールでの話だが、見えないから女性にひどい対応をしても良いという考えがあったという話ではなく、このクライアントのような人は顔の見える関係の女性に対してもひどい対応をしているのだろう。

 

果たして、その場合に女性はどのように対処すれば良いのか。服装やアクセサリー、言葉遣いで変化するほど単純な問題ではなさそうだ。

女性はヒゲもないし、そもそも、外見を変えることで扱いが変わるというのも変な話だと思う。

 

人がそれぞれ持つ差異には変えられるものと変えられないものがあるので、不当な扱いを受けていても変化させることで対処するということが不可能な場合もある。

それに以前に、本来は誰もが自分の(好む)外見で平等に扱われるべきだし、受け入れられるべきだ。

 

どのように状況を変えていけば良いのかに関して、明確なビジョンはないけれど、相手に対する尊重をするということや、自分が弱い立場にある人ではなくても自分のこととして主体的に捉え、行動することが必要だと感じた。

そのように連帯を見せることで、弱い立場にある人も声をあげやすくなるだろうし、立場が違う人も、自分たちと同じ立場でそのような姿勢を見せている人がいたら、少しずつ変わっていくことが期待できるのではないだろうか。

ヒゲの話から、悶々と考えてこんなことを思っていた昨夜であった。

 

マレーシアは危ない国なの?イスラム教徒は危ない人なの?

おととい、家で母とテレビを見ていた時、テレビでマレーシアのことが出てきました。

日本人にとっては住みやすい場所で、たくさん学びがあるという内容が放送されていたのですが、一緒に見ていた母は「イスラム教徒の国だから絶対に住みたくない」と発言しました。

 

私は「イスラム教徒が全員が危ないわけではないし、他の宗教の人だっているでしょ?」というと「あなたみたいに学校で勉強して内容に沿って、言葉の端を批判して、理想的に物事を捉えるのはおかしい」と言われてしまいました。

 

確かに過激な団体は危ないかもしれません。でも、同じイスラム教徒とされる人の中にはそうでない人もたくさんいるでしょう。

私の友達にもイスラム教徒のアメリカ人がいるけれど、とても人のことを思っている良い人です。

 

ひとくくりに「イスラム」=「危ない」としてしまうと、その中にいる個々人のことが見えなくなってしまうし、そのように考えること自体が差別を助長しているような気がしてなりません。

 

また、「マレーシア」=「イスラムの国」=「危ない」とすると、他民族、多文化、多国籍国家のマレーシアの中の文化の差異や多様性を無視したことにもなってしまいます。

本当にそれでも良いのかなぁと疑問を抱いてしまいました。

 

 

アメリカ帝国主義か?:"Latinx"の使用をめぐって

こんにちは。今日はセクマイ関係で思ったことを書いてみたいと思います(以下、文調が少し変わります)。

 

 

先日、私のアメリカ人の「兄」と慕っている人が、「面白い記事を見つけたよ」とリンクを送ってくれた。以下のものがそうだ。

http://swarthmorephoenix.com/2015/11/19/the-argument-against-the-use-of-the-term-latinx/

 

アメリカで中南米系の人を意味する"Latino"や"Latina"だと男性か女性のイメージがつくので、多様性を包括するために2014年ごろから使用され始めたようである。

 

その記事の内容を紹介する前に、アメリカでの人称代名詞をめぐる論争を少し押さえておきたい。

 

どのくらいの人が本当に使用しているのかは不明だが、男女と決めたくない・どちらでもある・どちらでもない人の人称代名詞として"he"や"she"に代わり、"ze"や "they"(3人称複数を単数形として使用する)を使用するケースがあるという(例:"Ze is my friend"や "They is my classmate")。

 

それは勝手に人が呼んで良いものではないので、大学によっては授業の最初に自分が呼んで欲しい名前や人称代名詞を紹介するという。

友人が留学していたクィア・スタディーズで有名なサラ・ローレンスはそのように必ず授業の最初の自己紹介で述べるらしい。

 性の多様性やセクシュアル・マイノリティに対する尊重と包括を示す言葉として、使用してもらえるのが嬉しいと言っている人をYouTubeで見たこともある。

 

 

さて、これは英語の例であるが、スペイン語ではどうであろうか?

 

ご存知の通り、スペイン語は単語レベルで女性形・男性形と分かれている。"Latino"や"Latina"のように男性形であれば単語の最後が"o"で終わり、女性形であれば"a"で終わる。

 

通常、複数人いて男女の両方が存在していれば男性形に複数系の"s" をつけるが、今回の記事では中南米系の人を呼ぶ際に"Latino"と"Latina"の2つではノンバイナリーの人に配慮がないため、ジェンダーを決めつけない中南米系の人を指す単語として"Latinx"としたら良いのではないかと紹介していた。

 

「なんと読むのか?」「母音じゃないのは発音しにくいのでは?」と初めて見た時に疑問に思ったのだが、動画のコメントで私が興味を持ったのは、"latinx"と呼ぶことが、英語の帝国主義、アメリカの帝国主義の押し付けであるという批判である。

 

 

私個人としては、それぞれがどう呼ばれたいかの方が重要に思われるので、"latinx"という単語を知り、考えた上で、その使用を考えたら良いのではないかと思う。

 

日本のLGBT運動でも、欧米中心の情報に溢れていて、文化的にも異なるアジアのことをそのまま欧米の理論を当てはめるのは少し違うのでは?と感じることも多い。

実際にセクシュアル・マイノリティの中には、カタカナの単語は英語圏・主にアメリカの押し付けだとして、LGBTという言葉自体に抵抗感を示す方にもあったことがある。

なんとなく、今回のスペイン語話者たちの"latinx"に対する反応にも通じるものがある気がする。

 

ただ、帝国主義かも…と思うと同時に、欧米生まれの概念が、何かしらのヒントやエンパワーメントになることも十分にあることであるとも感じる。

今回のケースでいうと、例えば中南米に生きるノンバイナリーの人で、自分の性自認に違和感やしっくりこないと感じている人がいたとして、"latinx"という言葉を知った時に、自分はノンバイナリーなのかもしれないと気づくことで、気持ちが楽になることもあるかもしれない。

その人にとっては、やっと会えた言葉である可能性もあるだろう。(そのまま鵜呑みにするのは危険かもしれないが…)

また、 "latinx"のような言葉に触れることで、自分の周りではどうかな?と考える機会になれば、それはそれで価値があることではないだろうか。

 

なので、これらのことを踏まえると、欧米的な考え方を押し付ける帝国主義的な傾向が見られるかもしれないが、良い面もあるかもしれないので、一概に全面否定するべきではないのでは?というのが個人的な意見である。

中南米系の人が生きるコミュニティや言語的な感覚、文化的・宗教的なものなどを含めた上で、"latinx"という言葉を捉え、使用したければ使用すれば良いし、「ちょっと違うかな」と思うならば、使用しなければ良い。そこから発展させて何か心地よい単語を生み出すのもありだと思う。

 

ちなみに、コメントとして、母音ではない"x"で終わるのが発音しにくいので、"u"にしたら良いのでは?という指摘などもあった。確かに「ラティンエックス?」よりはわかりやすい気もする。

 

日本では、あまり「彼は…」「彼女は…」と呼ぶ機会が少ないことや、特別な呼び方をすることでセクシュアル・マイノリティだと示すことになるのに対し抵抗感のある人も多そうである。したがって、あまり人称代名詞の論争は起こらなさそうであるが、この中南米系のノンバイナリーの呼び方論争は考える意味は日本に生きる私たちにも十分にあると思う。

 

ブログを始めてみました

「やってみようかな。どうしようかな。」と思って、ずっと踏ん切りがつかなかったブログを始めてみることにしました。

 

このブログは、実際に声に出して相手に伝えることが苦手な私が感じたこと・考えることをまとめたり、メモをするために作りました。

 

SNSや実際の会話では、「相手のことを傷つけてしまうのでは…」とか「自分が言っていることが変と思われたらどうしよう…」と考えてしまって、なかなか直接人にぶつけることができないこともあると思います。

 

また、自分の中でまとまっていない意見や考えを口に出すことが、「なんとなく憚られるな…」と感じることもあると思います。

 

そのような経験から、(直接自分の生活圏の人に考えをぶつけるのではなくても)少しずつ自分の考えていることを整理・ストックしていく場所が必要だなと感じ、このブログで自分の軌跡を残すことにしました。

 

後で振り返った時に、「あの時、こんなことを考えていたんだ」と気づきが得られたり、自分の過去と現在を結んだ時に何か見えてくれば良いなという希望を込めて、時間のある時にいろいろ書いていきたいと思います。